本の話⑧ 司馬遼太郎 vsドナルド・キーン

『世界の中の日本』(中交文庫)=
『Edo Japan Encounters the World』(一般財団法人出版文化産業振興財団)

司馬さん、キーンさんの対談集、7章から成る。英語版の翻訳はTony Gonzalezさん。
英語の勉強のつもりで、まずは英語版から読み、後で日本語版、つまりオリジナルにあたる、という読み方。かなりの意訳があり、英語版を日本語に訳しても「ちょっと違う」となるのが面白い。
第3章明治の憂鬱を生んだもの=Meiji Melancholy  が興味深い。最初に夏目漱石を論じている。
司馬さんは「漱石こそあらゆるジャンルの文学表現を可能にした先駆者」と別なところで評価しておられ、なるほどそうか、と思ったのだが、ここでは漱石の負の部分も語られる。
キーン説、ヨーロッパ文化の三つの受けとめ方があったとする。
一つ目、ヨーロッパを拒否する。
二つ目、採用するけれども、抵抗する示す。
三つ目、喜んで受け入れる。
漱石は二つ目に属す。
優れた英文学者であったにもかかわらず、イギリス留学で深く傷ついている。これは司馬説。漱石の読み書き能力に比して話す聞く能力ははるかに劣って、それがロンドンでの痛手となり、やがては英語世界から逃げてしまう。
が、それゆえにこそ英文学と漢文学の深い素地のもとに『吾が輩は猫である』が書かれた、とは半ば新実説。読み返してみると、これは実にとんでもなく斬新な小説で、第一ストーリーというものがない。まわりの出来事を「吾が輩」が観察、描写していくという趣向。ウーム、すごい、と唸りますね。

ここで話はうんと飛ぶのですが、明治の先人たちの偉大な業績の一つに、ヨーロッパ語の日本語訳があると思っている。artを芸術、philosophyを哲学、literatureを文学、musicを音楽 etc. 実に名訳だと思いませんか。われわれは大いにその恩恵を蒙っている。
音楽に関してはsymphonyが交響曲、concertoが協奏曲、など名訳だが、現在滅んでしまった訳も少なからずあります。
奏鳴曲、狂詩曲、譚詩曲など。平成生まれの方々にはたぶん?でしょう。
答えを記しておきます。ソナタ、ラプソディー、バラードです。良く考えられた訳ですが、時代が淘汰していくのですね。