5月27日付け読売新聞夕刊に舩木篤也氏の評が載った。このことは新作を書いた側にも演奏した側にもありがたいことだし、内容も限られたスペースの中で的確だと思われた。氏の文章を引用しながら、しばし言葉の世界に遊んでみよう。
氏は「古楽器とモダン楽器の二刀流」(エラールとスタインウェイが使われた)について先ず触れ、1867年製のエラールを「たて琴にも似た
ベルク、ベリオ、ミュライユの作品、そして僕の作品にもそれぞれの形で「ロマンティシズム」が内在し、それらとエラールは互いに支え合う関係だ。
僕の新作、尺八とピアノのための〈ロンターノ C.〉については “音程ひとつとっても西洋の楽器と一致するはずのない尺八が、このピアノとはある種の「風景」を成す” と氏は記す。「風景」とはエラールと尺八が並ぶ風景と、音やりとり・融合の風景をかけた興味深い言い回しで、記者氏はその妙を捉え、評のタイトルを―「風景」成す 古楽器と尺八―としている。
ただし「…一致するはずない尺八…」というのは若干不正確かもしれない。音程というものにはもともと「幅」があり、ピンポイントではないということ、さらに言えば、ピッチのズレが生み出す響きの豊かさというものもある。ちなみに現代の優れた尺八奏者はほとんどの音を平均率(A440~442)に合わせることができる。が、今回のエラールは432くらいに調律されている。それでも尺八の三橋貴風氏は常に「音楽的音程」で見事に吹き切った。かつ舩木氏の記したような素晴らしいppを聴かせてくれた。
欲を言えば、僕の作品の背後に流れている尺八本曲〈鹿の遠音〉との関係性や意味合いについても一言あればありがたいのだけれど、これは紙数が許さないであろうし、そもそも新聞評の範囲を超えているかもしれない。