知性と感性

 新型コロナの猛威はまだ衰えを知らない。この耐えるしかない日々に演奏家の皆さんはなかなかに頼もしく、あるいはエネルギーが有り余って(笑)ヴァイオリンやフルートの一人4重奏をツィッターにアップロードしてる方々がいらっしゃいます。是非ご覧ください。東フィルの面々です。
 以下、朝日新聞への寄稿原稿の最終回です。


3⃣ 知性と感性

 高校生になって初めてドビュッシーのピアノ曲<前奏曲集第1巻>を聴いた。それまで馴染んできた古典派、ロマン派、国民楽派とは随分違うその音楽は、新鮮というよりもなんだか良く解らないものとして響いた。が、何かひきつけられるところがあったのだろう。毎日聴き続けるうちに「あ、そうか」と腑に落ちることが増え、ついには「なんと素晴らしい」となった。いつの間にか感性が育ったということなのだろう。
 一方、知識は学習しなければ得られない。たとえば宇宙がどのようなものであるかは天空を見つめているだけでは解らない。物理学的なアプローチや、「宇宙は巨大な呼吸する一つの生命体である」といった哲学的な考えに出会いながら、宇宙観ができていく。
 さる高名な哲学者とシンポジウムのパネリストをご一緒したことがある。自分は未熟者とてなるべく聞き役につとめていたが、話の流れでふと、先に記した自分の経験や考えを口にした。すると「感性と知性は互いに磨き合うものとしてあるのです」とのお答えをいただいた。
 教育の場では音楽のみならず芸術全般が情操教育のためにあると捉えられているようだ。反対はしないが、そこには「芸術とは感性と知性の所産である」という視点がかけている。芸術の与えてくれる感動にこそ真実がある。。そんなつぶやきにも耳を貸してもらいたいとつくづく思うのである。
(2006年10月25日)


読み返してみると相変わらず下手くそな文章でがっかりするのだが、中味はあるように思われる。為に、最後のパラグラフに若干手を入れた。だからといって上手くなった訳ではさらさらなく、正確さが多少増した、という程度。佳い文章とは書き手の体験、感じたこと、思うところがありありと伝わり、かつ読み手の想像力を刺激して已まない、そのようなものと思っている。僕としては一抹の真実が伝われば、以て良し、といったところである。