詩は宇宙の瞬間を切り取る、という見方は間違いではない。が同時にその背後には実は時間が流れている。物語がある。それゆえ詩を歌にする時、その背後に流れる時間を感知しなければならない。朗読する時間とは異なる時間の中に歌はある。
『伊勢物語』の「梓弓」を合唱劇にする時にもそのことを存分に意識した。原作はわずか見開き2ページしかない。つまり時間はここでは限りなく凝縮されているのだ。それを「解凍」しなければならない。和合亮一台本がその役割を果たしてくれた。しかしまだまだ行間に時間が埋まっている。さらにそれを解凍していく。
芥川にたしか『戯作三昧』という短編があったように記憶しているが、歌作り、オペラ作りにはそれに相つうじる「三昧」の気分があるようだ。
今やっと〈愛のうたー光太郎・智恵子〉男声合唱、FL. CL. 弦オケのためにーの下書きを終えて全体を振り返って点検してみると、まだ読めていない時間が見つかる。こんなことも三昧の一部なのですね。
初演は来年の1月なのでこんなことを言ってる余裕があります(笑)。