エフクラシスの不条理

『音楽学への招待』(沼野雄司著、春秋社刊)

実に興趣に富んだ刺激的な著作である。
その第3章「音楽のエクフラシス」についての感想を記したい。
エクフラシスとは詩、絵画の音楽化のことをいう、とのこと。例えば、<牧神の午後への前奏曲>(マラルメの詩による)、<夜のギャスパール>(ベルトランの詩による)など、あるいは<展覧会の絵>もそうだ。
この第3章ではドビュッシーの<海>についていくつかの角度から論じられている。
標題音楽の受け取られ方に、標題がプラスとマイナスの働きを持つようであり、このことは興味深い。
音楽のエクフラシスとは、つまりは作曲家が文学、絵画などから想像的刺激を受け、それが全体的色調、具体的な主題・素材に結びついて、作品の形になるということではないか。
もとより音楽には情景や心理を描写する力はない。あるイメージを付託することは可能だが、イメージそのものではない。
ドビュッシーの<海>に関して言えば、自身の楽想が海と呼応している、あるいは海を想うことで楽想が展開した、ということではないか。それは海を描くということとは異なる。彼がエスキースにこだわったのは「新たな売り」を強調したかったように思われる。あるいは当時の流行に乗ろうとしたのかもしれない(後続するラヴェルの<夜のギャスパール>のように)。
<海>は純然たる管弦楽曲であり、その意味では<交響組曲>という絶対標題で十分である。たとえば<牧神の午後への前奏>も同様である。
当時のフランスの流行・風潮、そしてドビュッシーの「趣味」の所産と考えたい。
ピエール・ラロが「私は海を聴くことも、感じることもできなかった」と評したのは、明らかにドビュッシーの蒔いた「エスキース」「海」という言葉に惑わされているのである。
僕のエクフラシスの試み<荒地>も、そのように受け取られる可能性があるだろう。プログラム・ノートに「随走、伴走、脱走」と記したのは、エリオットの『荒地』を音楽に写し変えるものでは全くない、ということを喚起したかったのである。