西村朗の思い出①


まずは急ぎ足で振り返る。
稀有の作曲家、朋友の西村朗が癌に倒れた。69歳と365日目の19時、誕生日の前日の死だった。残念極まりない。50年を超える付き合いで、たくさんの思い出が頭を過る。
僕が藝大3年生、西村が1年生の時、テレビの「題名のない音楽会」の管弦楽の作曲コンクールに二人とも応募し、彼が第2位、僕が第3位。これが最初の公の思い出。以降、僕が77年にジュネーブ国際バレー音楽コンクールでグランプリを取ると、翌年彼はエリザベート・コンクールの作曲部門で優勝、等々。
その後の彼の活躍は枚挙に暇なく、たとえば管弦楽に与えられる尾高賞を6回も受賞している。
西村の作曲姿勢はどんなジャンルであれ「徹底する」というもので、時にそれは激越で過激ですらあった。そしてその情熱はとどまるところを知らなかった。
手遅れになるまで病院へ行くのを拒み、その時間を作曲に打ち込んだ。まさに壮絶な戦いぶりであった。
ついに入院することになった当日、ベッドからずり落ちた彼を戻すべく手伝いに行った。無事に戻し、ふと仕事部屋のピアノの譜面台を見ると真新しいスコアが置いてあり、何かメモとタイトルが書かれていた。遺作になるという予感に震えた。
これまでたぶん1000回以上は酒席を囲んだ。旅行もした。それら思い出の数々や作品について、思い出すままに記して行くことにする。西村朗の供養になればと願いつつ(文中敬称略)。